前回は『不登校』、特に積極的不登校についてでしたが、今回は『ひきこもり』について太郎さんにお話をお伺いしました。
太郎さん:『不登校』の時も言いましたが、『ひきこもり』とひとくくりにするのはどうかと思っています。
引きこもっていても、稼げる人もいますし、やりたいことをやっている人もいる。外に行くのがただ苦手なだけかもしれない。
それは個性と言えます。
沖縄のBEGINのコンサートにいってきたのですが、ボーカルの方が、人前でご飯をたべるのが苦手という話をしていました。
人前で歌えるのに、人前ではご飯が食べられないのです。メンバーとでもです。
苦手なこと、だれにでもありますよね。『ひきこもり』の人は、人と顔をあわせるのが苦手だったのかもしれません。
それを悪いと決めるから、問題が大きくなるのです。
でも、だから、甘やかすということではありません。むしろ逆です。
僕がひきこもりの子のいる家に家庭訪問したら親にこういうメッセージを伝えるでしょう。
子供の人生において、子供の責任によって、好きなことをさせたらいいのではないかと。
まずは、親がコントロールしようとするのを手放す。子供の人生なのです。選択肢は子供にあります。
でも、この家に住んで食べていきたいなら、家事を手伝うかなんかしてもらうのです。
手伝いは嫌、でも自分のやりたいことは何もない。
やりたいことがあってもアクションをおこさない。
なんとなくゲームをやっている。
これは、好きなことをやれているわけではないし、自分の人生に責任をとっていないですね。
外に出られない人を無理やり連れ出そうとはおもいませんが、
特に15歳を過ぎた子が引きこもったときは、食い扶持を自分で調達できるように、甘やかさないことが大事です。ひきこもっていても、ご飯が自動的に出てきたら、そりゃあ、出ていく必要はなくなります。
今は、ひきこもりの人の年齢が高年齢化しています。親は年金暮らしで、そんな子供を支えきれなくなっている。そういう方にどうするのかきくと、
「私が死んだら、なんとかするでしょう。」
と言うわけですが、何ともなりません。
何とかしたいなら、生きているうちに、ちゃんと自立するように、自活できるようにサポートします。それは、ただ、お金や食事を与えることではありません。
ひきこもりでも、そうでなくても、決して生命維持を人に預けてはいけないのです。それが親であってもです。
親は親の人生、子は子供の人生とお互いに線引きすることが大事と僕は考えます。
もちろん、複雑な問題が絡んでくるので、これですべてが解決するわけではないでしょうが、まず、親のスタンスが大事だなと思いました。
このブログシリーズは「さつきやま森のようちえん」の元保護者で、太郎旅の参加者でもあるライターの山田詩乃が、読者目線で、太郎さんに今、聞きたい事をインタビューし、まとめたものです。
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